宮津市公設市場と金樽鰯

写真は宮津市公設市場の様子とそこで手に入れた金樽鰯です。

金樽鰯は天橋立の内海である阿蘇海でとれる鰯のことで、この50年間不漁が続いてきたものですから幻の鰯といわれてきました。

それが一昨年から獲れはじめたのです。その味わいたるや、大間のマグロにひけをとりません。

価格もやすいものなのですが、これがレストランでは提供できないのです。

まず鑑札を持つ漁師さんの数が二軒しかないので安定した供給が期待できないこと、そしてこれが致命的なのですが、水揚げ後数時間で極端に味がおちてしまうのです。

そんなわけで、公設市場でさばいてもらいその場で味わうしかない幻の味覚であり続けています。

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お江の故郷へ行ってきました

写真は長浜の実宰院と浅井歴史民俗資料館です。

実宰院はお江の叔母が庵主様をなすっていたお寺です。

小谷城の落城時に三姉妹が駆け込んだところで、そのさいに女中が一人亡くなっています。

叔母さんは身長が175センチ、体重が百キロちかくある巨女でした。

姉妹を寺の中に匿うと、山門の前に仁王立ちになって兵士たちを追い返したそうです。

さてこの実宰院ですが曹洞宗の総持寺派のお寺です。

総持寺派は明治維新までは曹洞宗であっても別の宗派でした。

元は能登半島の総持寺が本山でしたから。水軍の関係者の多くが信者でした。

宮津の盛林寺とは兄弟関係になる寺院です。想像力をめぐらせれば、丹後水軍と琵琶湖水軍の連絡場所のひとつであったのかもしれません。

そしてお江の最初の嫁入りさきが、太平洋沿岸で活躍した水軍の提督であったことを考えあわせると、日本海、内陸湖、太平洋をまたぐ水軍のパートナーシップが存在したのかもしれません。

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アカモク 最盛期

「アカモク」ってなにかご存知ですか??

海草なんですよ。

とろとろ、ねばねばの美味しい海草です。

太平洋側では、船のスクリューに絡まるとかでにくまれっこなこともあるそうですが、丹後では人気者です。

今日は地元の元気なおばちゃんたちに出会いました。

「ぱうわう」さんです。

「ぱうわう」とは、インディアン語で「楽しく集う」の意味だそうです。

作業小屋をのぞいたら・・・・・

 わいわい皆さんが漁師さんがとってきたアカモクを1つ1つ手作業で葉と茎に分けていました。

アカモクは話題の「フコイダン」はもちろんのこと、「ポリフェノール」たっぷり!!

この季節 花粉症にも効きそうです。

なにより おばちゃんたちのパワーが効きそう!!

おいしいアカモクは丹後のとっておきのご馳走です。

ここでしか、いましかないうまいもんです。

ポン酢でつるっといただきます。

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栗田半島

写真は丹後半島とともに宮津湾をかたちづくる栗田半島から眺めた景色です。

栗田半島は丹後水軍の本拠のひとつであったところから、お寺の過去帳などみると水軍の関係者の名前をみつけることができるのだそうです。

また、寺院の中には細川氏が丹後に侵攻したさいの出来事を石に刻んだものがあるという話を聞いたことがありますが、多くが無住寺のために確かめるすべもありません。

遠く川崎市から先祖を尋ねて栗田の無住寺を訪れた方たちが、雅良生のブログに興味をもたれて会いにこられたことがありました。

そのかたたちの話では先祖は宮津を離れたあと、いったん九鬼水軍が大名をしていた三田におちついていたということでした。

2001年に宝塚少女歌劇で上演された「望郷は海をこえて」の主人公が九鬼水軍の若殿でヒロインが丹後宮津の姫君であったことが想起され興味を覚えました。

宝塚少女歌劇の中では、主人公の水軍の若殿は姫君との結婚資金を稼ぐために貿易船で出航したところで嵐に遭遇し、遠くシベリアにながれついた後、ロシア帝国の内乱に巻き込まれ、非常な苦難の末、故国に帰ってヒロインと結ばれます。

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神の降りし処かな・・・

最近 朝の山登りが日課です。

山の向こうには日本海がひろがってます。

地球ってすごいな。

・・・・そう素直に思えるのです。

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宮津湾

写真は宮津湾の内側から宮津湾の外海への出入り口を眺めたところです。

向って左側が丹後半島です。

日置の小石のような島が見えます。向って右側は栗田半島です。

宮津湾の向こう側には舞鶴、敦賀湾、小浜、そして金沢、富山がのぞめます。

歴史的には、奈良時代にすでに日置のあたりに港湾施設があり、日置の小島が潮の干満によって陸とつながったり離れたりする様子を詠った歌が万葉集にあります。中世には、久美浜と並ぶ丹後水軍の根拠地として発展しました。

丹後水軍の勢力は北陸沿岸から九州の北岸にまで及び石川県の県庁所在地のある金沢市は、この丹後水軍のコロニーのひとつである大野荘が発展したものです。

丹後水軍は、薪炭を移送する柴船を主要事業の一つとしていました。

九州で制作した白磁を金沢に運んで絵付けをさせて完成させる古九谷を事業化したのも、日本海沿岸の窯業や製鉄事業に薪炭を配送する事業をしてきた中から発想されたものと思われます。

NHKの大河ドラマ「お江~戦国の姫たち」の主人公の最初の嫁ぎ先も、柴船を主要事業とする水軍の提督でした。

柴船といってもピンとこないでしょうが、現在のタンカーやバルクキャリアを所有する船会社を想像してもらえばよいと思います。

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小林一生と柳縄手

日本の法廷弁護士の草分け的存在で、信州、北陸、沖縄の法曹界の事実上の創設者である小林一生は、写真の柳縄手にあった宮津藩医の小林柳庵邸で嫡子として誕生しました。

11歳のときに京にのぼり漢籍を学んだあと、大阪開成学校で英吾を学びました。

大阪府において代言免許を取得し、明治13年に信州の上田で代言人組合会長となりました。

明治14年に富山県で富山代言人組合会長となりましたが明治13年に、自由民権運動弾圧の余波で逮捕され、釈放されてしばらくは宮津で開業していました。

その後明治26年に弁護士制度が発足すると同時に、沖縄の那覇地裁検事局に弁護士登録し、判事に任官、台湾総督府の判事もかねて、沖縄と台湾の法曹界の創設に奔走しました。

明治30年に内地に機関して後には、東京府会議員に2回当選しています。

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京極高広と山王宮

写真は宮津藩主の京極高広によって破壊され、京極氏が改易されて後に再建された山王宮・日吉神社です。

高広は徳川時代の300諸侯の誰もがなしえなかった愚行を3つおこなっています。

一つは親子喧嘩がもとで、おとりつぶしになったこと。

二つ目は、ブリの頭がもとで隣国の福知山藩と戦争をしたこと。

そして三つ目は男同士の同性愛の媒酌をしてやったことです。

三つ目の愚行は、熊沢蕃山を池田侯に引き合わせたことですが、賢い殿様として知られる池田候のことですから、たちまちに引き合わされた美少年の才能を見抜き、彼に最高の教育を受けさせて、後の大学者の誕生をみるのです。

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公慶上人と丹後の雪景色

NHKの人気番組「歴史秘話ヒストリア」で放送され、視聴者の熱烈なアンコールにこたえて何度も再放送された「大仏再建~公慶上人伝」でご存知の方も多いとおもいますが、現在見ることのできるの奈良の大仏様と大仏殿を建造したのは、丹後の宮津で生まれ育った公慶上人です。

少年時代の上人も写真のような雪の成相山を見て、浩然の気をやしなわれたことでしょう。

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稲生若水と京都府立丹後海と星の見える丘公園

江戸時代に世界最初の食育大百科事典をつくりあげた稲生若水は、淀藩主の藩医の子として江戸で生まれました。

藩主の永井氏が宮津に国替えとなったことから、少年時代を丹後の地で過ごすことになります。

長じて後に大阪と京都で学んで、漢方の薬学である本草の大家となりますが、従来の本草学の事典に飽き足らず、薬学のみならず食育学の観点から多くの植物、非植物をもあつめた大事典を編纂しました。

1693年に加賀藩主の前田綱紀の後ろ楯を得て、編纂に着手した「庶物類纂1000巻」でしたが、若水は362巻まで完成したところで逝去しました

。しかし、今度は将軍吉宗のお声かかりで事業は再開され、若水の子らと弟子たちによって、1054巻として完成されました。

この事業によって、日本に自然科学がめばえ、植物学と殖産興業のブームがまきおこることになります。

写真の京都府立星と海の見える丘公園は、農業の実践を通して子供たちに食育をすることを目的としています。

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