宮津湾のトリ貝漁

ホテルへの送迎バスのお客様から宮津湾に多くの漁船が出動しているのを見て何を獲っているのかと聞かれます。

丹後トリ貝を底引き網で獲っているところです。

丹後の水産資源は6月、7月のまいわし、カタクチイワシの漁獲高が例年の50倍に達したのを見ても、確実に増加しています。

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口コミ大使の活躍

二月に丹後口コミ大使でつくる「語り部」が企画した「丹後七姫冬浪漫号」という列車を運行しました。

丹後ふるさと検定合格者でつくる 「語り部の会」のメンバーがほんまにええとこ、ほんまにうまいもんを紹介し おもてなしをする 列車のツアーです。

販売一週間で完売した 大人気ツアー

その活動が日本のニューツーリズムとして全国で3件選ばれたなかの1つとして載りました。

丹後の語り部は熱い!!!

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蜃気楼

5月7日土曜日の午後6時に宮津湾に蜃気楼が出現しました。

私が目撃したのは、栗田半島の田井海岸に面した高台にあるホテルの2階レストランからですが、いきなり水面が陸地に様変わりしていき、それから島が出現してわずか数分で元の景色に戻りました

。私はレストランのお客様たちとすごいことになってると固唾を呑んで見つめていましたが、ちょうどその時間にバスでホテルに向っていたお客様は「津浪か」と青ざめたといいます。

昼間に暑く、夕方に一気に気温が下がったのが原因のようですが、じつは昨年の5月にも蜃気楼が出現したと、地元の方が教えてくださいました。

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滝上山のツツジ

写真は滝上山のツツジです。

ツツジは春の季語。躑躅花は万葉集に「匂う乙女子」の枕詞にとられているように日本原産であるとも言われています。

宮津市の市花はミツバツツジですが、決定された直後に、植物学者からミツバツツジは宮津市内に自生していないのではないかとの疑問を寄せられた結果、宮津市広報で市花のミツバツツジは宮津市内に自生するコバノミツバツツジのことですと釈明する一幕がありました。

もっともこのふたつを見分けるのは、変異もあってなかなか難しいのです。

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如願寺の弘法大師春祭り

写真は四月21日に行われた如願寺の弘法大師春祭りの様子です。

如願寺は平安時代の万寿元年に開かれたと伝えられる古刹で真言宗です。

本堂は1672年に建造されたもので、冨田大工の彫刻による欄間に注目です。

如願寺に隣接する愛宕山には八十八箇所がもうけられており、春のお祭り日には皆で登山して参拝するならわしです。

山にはツツジが花咲き、遠く宮津湾を眺めることができます。

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宮津城のタモの木

写真は、かつての宮津城の二の丸の北の端を示す樹齢300年のタモの木です。幕末に宮津城に出仕していた人で明治になってから小学校の先生をしていた人が、大正になって手持ちの資料と記憶をたよりに描いたお城の間取り図によると、このあたりには大きな宴会場が配置されていたようです。宮津湾と天橋立の風景を眺めながらする食事はさぞかし美味だったにちがいありません。

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キャッスルトレックはじめました

4月11日から毎日、かつての宮津城の外郭をジョギングすることをはじめました。名づけて「キャッスルトレック」です。必須通過ポイントは、写真の宮津小学校正門(かつての太鼓門)、沼野家の門(宮津藩の筆頭家老の家の門)のほかに、お菊稲荷、警察署前のタモの木そして、病院前に置かれた石垣の遺構などなどです。みなさんも健康維持と丹後検定のためにがんばってみませんか?

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馬邊石路神社

式内社の守山石邊神社は、滋賀県守山市にある古社です。

10月におこなわれる「そうちく千灯」は、日没にあわせ、提灯450個を使った高さ10メートルものちょうちん山笠や、竹を切った中にろうそくをいれた竹あかし、ペットボトルを利用した明かりなど千個の灯りがともされます。

実は、この神社の入口に立つ萱葺きの立派な紳門は、宮津藩の陣屋役所から移築されたものだそうです。

実は守山市の一部は、中仙道の宿駅として重視され最初は幕府領、天保8年以降は丹後宮津藩の飛び地の領地となりました。

平成20年には、守山市との歴史的かかわりから宮津市のNPO法人「たんごきもの美人」とKTRを守る会を中心にしたツアーが企画され、宮津市民と守山市民との交流がおこなわれました。

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いつも、ここからはじまる。

今日はぽかぽか天気でした。

春を感じます。

自然の驚異を感じる今日ですが、こんな日は太陽の偉大さも感じます。

先週までは雪も降っていたのに、もう 桜が咲いていました。

宮津市役所の駐車場、大手側よりにあるしだれ桜。

あたしの春はいつもここから始まります。

そして 太陽は平等に降り注ぎ、野山に、町に、海に、あたしに、あなたに・・・・

すべてのものを暖かく包むのです。

さあ!  春です!!

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清水満之助と宮津

写真は宮津市の万町にある今林家に伝わる幕末の宮津のお殿様の本庄宗秀の描いた七福神図です。

宮津藩は他藩の例に漏れず、財政難にあえいでいました。

宮津市内の名家や各町内会にお殿様の描いた絵が多いのも、寄付金をつのったり借金のカタに描いたのが残されているというのが真相のようです。

宮津藩の赤字が解消され黒字に転換したのには、宮津藩の重役で江戸詰めの普請奉行をつとめのちに勘定奉行、寺社奉行を歴任した村田六郎の活躍がありました。

彼は江戸にあって建設業者を対象に経営コンサルをおこない、商談が成立して無事集金がはたされたときに業者から支払われるリベートによって藩財政をたてなおしました。

中でも最も成功したビッグプロジェクトが開国にともなう横浜の造成工事と公共施設の建設工事を清水組のちの清水建設に請け負わせた一件でした。

井伊家が鍋島藩に相談したのを聞きつけるとさっそく根回しをして最後には井伊家に直接かけあって受注にこぎつけたといいます。

清水組はこの縁を大切にして、村田の次男坊の満之助を婿養子にして三代目当主とします。

満之助は35歳の若さでなくなりました。当主であったのはわずか6年間に過ぎませんでしたが、清水組を近大的企業に脱皮させただけでなく、後に日本の資本主義を特徴付けるさまざまな制度を創始しました。

その第1は専門職の養成でした。日本建築学会を資金的に賛助し、第1回大会に本社社屋を提供しました。

第2は日本複式簿記の発明です。そして第3に特筆すべきは日本的給与体系を創始したことがあげられます。

欧米の成果給を模範にしながら全く日本で独自に創設されたボーナス給のボーナスという言葉は英語でも仏語でも独語でもありません。

古代ローマにおいて使用されたラテン語のスラングが語源とされています。いかにもキリスト教が禁止されていた時代に、あえて宣教師の家に住み込み、無給で働くかわりに語学をおしえてもらい、結果として十代にして数ヶ国語をマスターしたという満之助の命名によるものだとされています。

ちなみに賞与という言葉は清水組がボーナス給を制度化した十年後に公務員にも適用されたときに用いられた名前です。

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